洗濯機が不調で、すすぎが終わっても泡だらけのことがあって、ただ全自動で洗濯乾燥モードでやっているので、そのまま乾燥に突入している。
一年のうち二ヶ月くらいは洗濯機がおかしくなっていて、たびたび靴下を詰まらせてしまって修理の人を呼んだり、乾燥に使うエアコンが壊れて交換してもらったりしているけど、そろそろ限界なのかもしれない。
以前なら、洗濯機が壊れても、1週間ぐらいは在庫があってやっていけていたけど、いまは保育園の服たちがあるので、すぐに在庫が尽きてしまって、大変なことになると思う。洗濯機が壊れたと想定して予行演習しておくとよいかもしれない。たぶん就寝時間が午前2時とかになって、朝起きられなくなり、仕事にいけなくなり、寝ている間に保育園のお迎えの時間が過ぎてしまって、慌てて迎えに行って交差点で車に跳ね飛ばされる。
それでも、なぜか洗濯機は壊れるまでは買い替えたくない、というケチケチした気分になってしまう。服が洗えない暮らしって考えられないので必須のオペレーションなのだけど、求めている品質はそれほど高くなくて、服は洗えて乾いていればそれで良く、それ以上のことは望んでいない。そういう期待感だと、服が洗えたとしても感謝しようという気分にはあまりならない。
一方で、オーブンで鶏肉とか焼こうとしたら、最高の焼き上がりでないと、今日はパサッとしたね、とか言って、さらなる美味を求めて探求が始まり、うまく焼けたら、めちゃくちゃうますぎる、と言ってヘルシオに感謝している。
結果が派手なものには関心を寄せたり、感謝したりするけど、あるのが当然の地味なサービスに対しては感謝しようという気にならない、という特性が人間にはあるのかもしれない。