hitode909の日記

以前はプログラミング日記でしたが、今は子育て日記です

用事があって夜に実家に帰った。
前回は祖父が入院から帰ってきたところだったけど、今回は、週明けに手術ということだった。
これが日常化していて、誰も心配していないような状況だし、LINEで教えてもらったりもしない。
たまに帰って、みんな元気?と聞くと、誰が入院中、というステータスが毎回変わっている。

あとは、父が自治会長、自治会顧問、となんだかんだ役割を歴任していたのが、それに加えて、農業組合長になっていた。
地域の、米を作った方たちが献上してくれる風習?があって、赤い字で、献上…みたいなことが書かれていた。
上納米みたいな仕組みがあるとは思えないので、就任祝いだったのかもしれない?謎が深まっている。
ちょっと検索したけど、こんな風習についてインターネットに書いてる人はいないためか、なにもわからなかった。

寒さや、いろんな用事が立て込んでいる、ということもあるのか、体調がおかしくなっていて、サウナに行くと回復する。
たぶん自律神経が変になっていると思う。
自分の体温では体調を維持できず、100度近くある部屋に押し込むことで生きながらえることができる、という変温動物みたいな状況。

ちょっと検索して見つけたPDFで、こんな症状はありませんか?にチェックをつけて自己診断してみたら、かかりつけ医に見てもらいましょうというレベルだった。
夕飯にたこ焼きを作ってる途中で、たこ焼きに集中して凝視しすぎて、眼精疲労が限界、とか言ってしばらく床に倒れていた。
現代人はみんなこういう感じの暮らしをしているんじゃないの?と思う。
それに耐えられる者だけが過酷なITの世界で生きていける…みたいなイメージがあるけど、みんなこんな暮らしをしているはずはないと思う。
https://www.japha.jp/doc/byoki/019.pdf


ということがあって、前の前の家の近くの銭湯に4年ぶりに行ってみたら、懐かしさが出てくるかなと思ったけど、そうでもなく、あれっこんな感じだったっけ…?という感想だった。
サウナにテレビが有り、マツコの知らない世界が流れている。スピーカーの音が荒くて、マツコが喋るとかならず音が割れて、ヘビメタみたいな音になる。
銭湯はさておき、まわりの道とか町並みのスケール感はこんな感じだったな、と思い出していた。京都市の中でも西の方の大通り沿いで、夜通し、爆音で暴走するバイクが走り回っていて、子が起きてしまっていたのを思い出した。
こういう何も無い場所でベビーカーを押して散歩していて気が滅入っていた。今は自律神経はおかしいけど、あのときよりは良い、と自分を励ましている。でも、4年前も自律神経はおかしかったと思う。
ただ、引っ越すたびに家から最寄りの銭湯が遠くなってきていて、徒歩3分→自転車で5分→自転車で8分、という感じでだんだん遠くなっていっている。


久しぶりにサウナイキタイで滋賀県のサウナをチェックしていたら、蔵が改造されたサウナができていた。
こういう個性的な施設はすぐになくなったりするので、そのうち行きたい。
なくなって結局行けなかった個性的な場所としては、四条のテクニクスカフェがある。
doga-sauna.com

ふりかえり会をやっていて、問題への対策として「こういう仕組み化をしよう」はよく思いつくけど、「これを勉強しよう」や、「取り組む時間を増やそう」には、なかなか至らない。

一人で何らかの授業を受けて合格しよう、というときには「勉強のルールを仕組み化」とはあまりならず、TRYはたぶん「合格できるくらい勉強する」になると思うので、それが、どこか、人間からチームになるときに、仕組みに視線が寄ってしまうというか、チームワークで解決できる部分が強力なのでチームワークで解決しようとしてしまうのかもしれない。

いまチームには「勉強したいことを募って勉強を企画する」ロールの役を一人設置して、勉強を主導してもらう動きをしてもらい、なんでも仕組み化ではなく、自分たちが覚えていて活用できる知識を増やそう、という活動をしている。
しかし、これも、気づいたら仕組み化してしまっていることに気づいた。

地域のハロウィンイベントに行った。
子どもが地域のいくつかの拠点を巡ると、おやつをもらえる、というもの。
おやつをもらいたいとき、何と言うでしょうか?(答え:トリック・オア・トリート)、というときに、うちの子は「おやつください!」と堂々と言っていて良かった。
途中からすごい雨になってきて参加賞が雨で溶けていた。

夕方に帰ってきて、テレビでけいおん!を見ながらお菓子を食べ始めて、僕はソファでうとうとして起きたら劇中で合宿が終わり、特訓も終わって、引き続きけいおん!を見ながらお菓子を食べ続けていて、すごい集中力だと思う。
なんでけいおん!を見ているかと言うと、子がリンダリンダリンダを見たいと言い、しかし、リンダリンダリンダは配信されてないので、じゃあこれでもいいか?とけいおん!を流し始めたら、気に入って見ている。
とくに挫折とかなく物事が進んでいっているのが新鮮。
背景がどう見ても京都で、亀石を飛んだりしているだけど、劇中としてはべつに京都に居るわけではなさそうなのが不思議。

花脊山の家でやってるアウトドアイベントに行った。
蝋石を削って勾玉を削るアクティビティがおもしろかった。ここを削って面を作ろう、とかやってるのがたのしすぎる。
悩みごとがすべてなくなる。
やすりで磨いてたらツヤツヤになるまでのフィードバックも早くて良い。家でもやりたい。
子は時間内に完成させられず、号泣していた。やすりをもらって帰ったので後日やろう、ということにした。なぜ完成させられないかというと、親が2人とも各々の勾玉を作っていたため。
まわりの家族は子が1個だけ作っていて、親はただ見守っている場合があった。
けど、こういうときに大人の本気を見せて、ツヤツヤの勾玉を完成させ、悔しがらせることで、より上達する余地があることを示せるのは良いことだと思う。


行きはGoogleマップのナビの言う通りに大原の方から行ったらすごい細い道で、ガードレールがなくて山に転げ落ちそうな道があったり、ちょっとした村のあぜ道を突っ切ったりして、たいへんだった。
帰りはマツダのナビに従って金閣寺の方から帰ったら比較的マシだった。
こういうときに道の名前に関心がないので、〇〇号線、みたいな会話ができない。名前に関心がなくて、概念的に差がある者たちは、こんな者もいれば、こんな者もいる、というほうが関心がある。

家を作るときに大事にしたことがあって、手作業を残す、ということ。
車とか買おうと思ったら、顧客が板金に参加して、鉄板をプレスしたり、内装のフェイクレザーの裁縫に参加したり、というのは考えられない。
一方、家の建築では、内装段階になると、顧客がいきなり介入して製作に参加できる。物体の製造に顧客が参加できる要素が残っているのは、近年では珍しい。見渡す限り、大半のものは完成品が売られている。

ペンキを自分たちで塗った結果、はみ出したり、気泡が残ってたりするんだけど、自分たちで製作に関わったものである、ということのほうが価値が大きい。
この指摘はなにかの本で読んだのだけど、どこに書いてあったか忘れた。
また、自分たちでやると、もともと施工精度が悪いので、剥がれたところにペンキをちょっと塗ったりして補修もしやすい。
先日、インフィニティチェア壁に思い切りぶつけてペンキが剥がれたけど、筆でちょっと塗ったら元通りになった。


リフォーム工事後に、ここに小キズがあります、やりなおし、という硬直した、顧客、業者、という関係ではなくて、住む場所というのはその場で手作りしているのだから、工場で作っている製品のような、キズが一つでも入ったら売れないものではなくて、一つずつ違うものであるし、顧客も製造に参加したほうがおもしろい、という考えを広めていきたい。
それでいうと、完成品のマンションを買うにしても、自分たちで何かやってみるポイントがあるといいと思う。トイレの壁はボードのままになってて入居時に漆喰を塗る儀式がある、とか。
日曜大工、とか、家庭内で使うものは自分たちで作りたい、といった、天然生活とかチルチンびとみたいな世界観が好き。


ペルーでは、建物が完成すると税金が高くなるので、未完成のまま置いてあるらしい。日本ではすべての建物が完成しているけど、未完成のまま住んでいるとか、改造可能な箇所が残ってるとか、そうなると、発想の自由さが増えて良いと思う。ここの壁どうしようかな?って普通は考えないけど、考えられる環境が良いと思う。

ペルーなどでは、壁や屋根から鉄筋が何本も飛び出し、まわりにも瓦礫が積まれたままという住宅を見かける。未完成だと固定資産税が安くなるからだ。

ハッキング思考 強者はいかにしてルールを歪めるのか、それを正すにはどうしたらいいのか